売上の大半がNDA案件で、「実績を見せられない」ためにHPからの新規引き合いが増やせない——切削・板金・成形などの受託加工業の経営者・営業責任者に向けて、事例公開の法的な線引きと、顧客名を伏せたまま技術力が伝わる事例の作り方を整理します。
顧客名を伏せれば無許可で載せてよいのか
受託加工業のWeb集客には構造的なジレンマがあります。海外のマーケティング事務所Pallant Studioは、NDA下では新規顧客を惹きつけるはずの実績の共有そのものが法的義務によって制限される、と指摘しています。出典: How to do marketing when you have an NDA (Pallant Studio) 技術力を示す最良の素材が、契約上いちばん出しにくい情報になっているわけです。
では、顧客名さえ伏せれば無許可で掲載してよいのか。答えは「否」です。坪田晶子弁護士は、導入事例の公開は取引先の企業情報の公開にあたるため、「取引先の担当者のみならず社内決裁を取得している必要があります」と解説しています。出典: 導入事例を広報・営業に利用する際の注意点(坪田晶子弁護士・ちょこっと弁護士Q&A) 現場担当者の口頭の「いいですよ」では足りず、先方の社内で正式に通った承諾が必要だという水準感です。
匿名化する場合も例外ではありません。B2Bマーケティング会社のEquinet Mediaは、匿名事例であっても書き始める前にクライアントに知らせて許可を得ることが不可欠だと明言しています。出典: How to write a gripping case study - without naming the client (Equinet Media) メールや書面など記録が残る形で承諾を取ることが、事例掲載の出発点になります。
どこまでが秘密情報か——3要件と契約の定義条項で線を引く
「図面は伏せる、材質は出す」のような一律の線引きは存在しません。基準は法律と契約の2層で考えます。
法律面では、不正競争防止法上の営業秘密は有用性・秘密管理性・非公知性の3要件を満たす情報と整理されています。経済産業省知的財産政策室で室長補佐を務めた黒川直毅弁護士による営業秘密管理指針(令和7年改訂)の解説が根拠です。出典: 営業秘密管理指針の令和7年改訂 ポイントをわかりやすく解説(BUSINESS LAWYERS) 特に注意したいのは組み合わせの扱いです。同解説は「公知情報の組み合わせであっても、その組み合わせが知られていなかったり容易に知り得ないため、財産的価値が失われていない場合には非公知と言いうる」としています。材質・公差・最終用途はそれぞれ単体ではありふれた情報でも、「この材質をこの公差でこの用途向けに加工している」という組み合わせは、顧客の営業秘密に該当しえます。
契約面では、NDAで守るべき「秘密情報」の範囲は法律が自動で決めるのではなく、契約書の定義条項でどこまでを秘密情報として扱うかを定める建て付けです。出典: 秘密保持契約(NDA)とは?(契約ウォッチ) 一般的なNDAでは、開示時点で公知だった情報や受領側が既に保有していた情報などが秘密情報の例外とされており、ここが「出してよい情報」の契約上の起点になります。つまり最初にやるべきは、自社が結んでいるNDAの定義条項と例外条項を読み直すことです。
迷ったときの実務基準として、Interaction Design Foundationは「公開されていない情報はすべて秘密情報とみなす」保守側の前提から始めることを勧めています。出典: How to Handle NDAs When You Write Your UX Case Study (IxDF) なお、個別案件の線引きは契約内容に左右されるため、公開前に弁護士等の専門家確認を推奨します。本稿は一般的な整理であり、法的助言ではありません。
顧客名なしで発注担当者に技術力を伝える書き方
社名を伏せても、事例の説得力を担う要素は残せます。Equinet Mediaは顧客名の代わりに「a leading European OEM」「Fortune 500 company」のような業界×規模の記述子を使う方法を定石として挙げています。出典: How to write a gripping case study (Equinet Media) 日本の受託加工なら「大手自動車部品メーカー向け」といった表記がこれに相当します。
国内の製造業サイト支援でも同じ方向の実務があります。ディーエスブランドは、受託加工業では顧客の社名を出せないことが多いため、社名は伏せたうえで加工品の写真や材質・加工法を中心に事例ページを作る構成を示し、掲載項目として製品名・業界・素材・加工方法・サイズ・寸法精度/公差・特徴を挙げています。出典: BtoB製造業ホームページの加工事例・導入事例ページの作り方(ディーエスブランド) 製造業Webマーケ専門のテクノポートはさらに具体的で、詳細情報の例として材質、サイズ、精度、幾何公差、ロット数、業界、加工方法、納品先、値段を列挙しています。出典: 誰でも納得する加工事例、製品事例の書き方(テクノポート) 発注担当者が知りたいのは社名ではなく「自社の難所を解ける相手か」であり、この粒度のスペックがその判断材料になります。
数値成果はどうか。IxDFは、実数を出せない場合は「12,512→14,013」ではなく「12%増」のように割合で示すテクニックを挙げています。不良率の低減幅や納期短縮率を割合で書けば、顧客の生産数量や取引規模を明かさずに成果を伝えられます。工程写真についても、この「特定につながる要素だけを落とす」発想を応用できます。製品全体ではなく加工面のアップを使う、顧客支給図面や刻印・ロゴが写り込む箇所は掲載しない、といった処理です。
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資料を無料で受け取る→ 承諾の切り出し方——受注前の契約書に盛り込むのが最有力
既存の取引関係を壊さずに承諾を得るには、切り出すタイミングと書面の設計が要点になります。才流の調査では、事例取材を依頼するタイミングは「受注前」が最多の62.7%で、同社も契約書に事例許諾の文言をあらかじめ盛り込むなど受注前の依頼を推奨しています。出典: 導入事例の取材許諾の取り方(才流) 既に取引中の顧客に後から依頼する場合は、掲載イメージを伝える、日時は顧客の都合を優先する、公開前に原稿確認が可能なことを伝える、口頭だけでなく文書で依頼する、の4点を押さえるのが同社の整理です。「公開前に必ず確認いただけます」と先に伝えるだけで、先方の心理的ハードルは大きく変わります。
承諾書面に入れる条項も定型があります。デジタルドロップは、使用期間に加え、顧客側の事情で掲載を取り下げたい場合の申し出方法とその際の対応、両社の署名捺印欄を定めるべきとしています。出典: 導入事例掲載許可を適切に取得するための5つのステップ(デジタルドロップ) 企業名やロゴは多くの場合商標登録されており、正式な許諾なく使用すると商標法・著作権法・個人情報保護法に抵触する可能性がある点も同記事の指摘です。加えて坪田弁護士は、導入契約で広い守秘義務を負っている場合、承諾書面で「導入事例に関しては守秘義務を負わない」旨を明確化するとトラブル防止につながると解説しています。NDAと承諾書面の関係を曖昧にしたまま公開しないことが肝心です。
匿名事例は引き合いにつながるのか、どう測るか
効果の実例として、従業員35名の工業用ゴム製品製造業が、製品情報や技術情報を分かりやすく伝える構成に見直したサイトリニューアルで、3ヶ月で問い合わせ数がリニューアル前の20倍、検索エンジン経由の新規アクセスが2倍になったケースがあります。出典: 【製造業SEO成功事例】問い合わせ数が20倍!(アイリーラボ) ただしこれはリニューアル全体の成果であり、「匿名化した事例だから効いた」と因果を切り出せる調査は見当たりません。一方で、Demand Gen Reportの2022年調査ではB2Bバイヤーの55%が「購買の調査・意思決定でコンテンツへの依存が1年前より強まった」と回答しており、発注検討の過程でWeb上のコンテンツが読み込まれる度合いは高まっています。出典: 2022 Content Preferences Survey (Demand Gen Report)
測定は、Google Analytics等でアクセス数、流入キーワード、コンバージョン数、ユーザー行動を定期的に確認する形が基本です。事例ページごとの流入キーワードを見れば、「材質×加工法」で検索した見込み客がどの事例に着地して見積依頼に至ったかを追えます。
事例作成にAIを使う場合の役割分担も、ここで明確にしておく価値があります。ドラフトの生成——構成づくり、社名から規模表記への言い換え、実数から割合表記への変換——はLLMに任せられます。一方、「どの項目を伏せるか」の確定と公開可否の最終判断は、承諾書面で定めたルールと人間の決裁で確定させます。生成はLLM、確定はルール。この境界を崩してAIに匿名化判断まで委ねると、承諾書面と矛盾する掲載が起こりえます。
まとめ
匿名事例でも無許可掲載は不可で、先方の社内決裁レベルの承諾を書面で取ることが出発点です。伏せる範囲は営業秘密の3要件とNDAの定義条項を基準に、公知情報の組み合わせにも注意して決めます。明日の一歩として、次の見積・契約の場面で契約書に事例掲載許諾の文言を入れる案を1社に提示するところから始めてください。
よくある質問
顧客名を伏せれば、無許可で加工事例を掲載してよいですか?
いいえ。導入事例の公開は取引先の企業情報の公開にあたるため、先方の担当者だけでなく社内決裁を取得している必要があると解説されています。匿名化した事例であっても、書き始める前にクライアントに知らせて許可を得ることが不可欠です。現場担当者の口頭の了承では足りず、メールや書面など記録が残る形で承諾を取ることが出発点になります。
どこまでが出してはいけない秘密情報ですか?
法律と契約の2層で判断します。法律面では、不正競争防止法上の営業秘密は有用性・秘密管理性・非公知性の3要件を満たす情報とされ、公知情報の組み合わせであっても容易に知り得ない場合は非公知となりえます。契約面では、秘密情報の範囲はNDAの定義条項と例外条項で決まります。迷ったときは「公開されていない情報はすべて秘密情報とみなす」保守側の前提から始め、個別の線引きは専門家に確認してください。
事例掲載の承諾はいつ、どう取るのがよいですか?
才流の調査では事例取材を依頼するタイミングは「受注前」が最多の62.7%で、契約書に事例許諾の文言をあらかじめ盛り込む方法が推奨されています。既存顧客に後から依頼する場合は、掲載イメージを伝える・日時は顧客の都合を優先する・公開前に原稿確認が可能なことを伝える・文書で依頼する、の4点を押さえます。承諾書面には使用期間、取り下げの申し出方法とその際の対応、両社の署名捺印欄を定めます。
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執筆者
伊藤 悠株式会社ストラテジーオプス 代表
マーケティング業務へのAI実装支援(StrategyOps)を提供。「生成はLLM、確定はルール」を設計思想に、広告・SEO・コンテンツ・レポーティングの内製化を支援している。本メディアの記事制作もこの体制(生成はAI、事実確認と公開判断は人間)で自社運用している。